昭和45年05月05日 朝の御理解
御神訓 一、「討ち向かう者には負けて時節に任せよ。」
お道の信心を消極的だ、と言う人があります。成程、消極的の様にも見えます。それは、ただし外から見る金光教であり、側(がわ)からみる金光教は、そういう風に見える向きも、やっぱりありますけれども、中身からそれを覗かせて頂きますと、金光教の信心程、積極的な、強いものはないという風にも頂きます。この御神訓等も、正しくそんな感じが致しますですね。
「討ち向かう者には負けて時節に任せよ」というのですから、いかにも消極的なようですけれどもね、実を言うことは、負けるということは、負けておくというのですから、実際、戦えば勝てるんです。勝てるけれども、負けておくというのですから、勝つ以上の強さがなからなれば出来る事じゃないです、ね。何時もかつも負けておけというのじゃないですからね。討ち向かう者にはですから、ね。
討ち向かう者には負けるということは、非常に積極的なね、内容を持っておらなければ、又勝つことよりも強いものを持っておらなければ、負けられない。そういう意味でね、金光様の御信心は、非常に消極的の様に見えて、実は積極的だと。外面は優しい様にあるけれども、内部には非常に強いものを持っておる。いうなら、私はお道の信心の一つの性格じゃないかと思うですね。例えばこの御結界奉仕なんか。
まあこれは金光教の独断場でごいざいますけれども、布教するというてもですね、例えば、教師が布教をして回るといった様なことをしませんですからね。ここ畳半畳に座ったきり。そして、救いを求め、助けを求めて来るその人達の上にです、積極的なお取次、祈りとね、取次者の信心による金光大神の御取次のお手代わりとしての、それを充分にここで発揮させて頂こうという事。
同時にここでは、ね、いうなら、もう神様に一切を任せきっておらなければね、ここに座られないと思うんです。こりゃね例えば、んなら教会の食べ物がなくなった、というても、信者の家を回って回る訳にはいかんのが、お道の信心ですから、ね。それこそ、いわゆる決死の覚悟を持って。ですから、もうこのくらい積極的な私は布教は、ないと思うですね。外側に呼びかけて、取次者。
先生が〇〇教のように、さぁ病人がおれば、その病人の所へ行ってからね、お話をしたりして、そのするというのとは違うんです。ですから、ほんとに消極的なように見え、只助けを求めて来る者をじっと待つ、待っておるというのですから、実に消極的な様ですけれども、その内容たるや、そりゃ実に悲壮なものですね、いうなら。それは、悲壮なものというが、神様を信じきっての御用ですから、ね。
死を決してから、よしお参りが無いなら、食べんなでも、というくらいな積極的な内容を持つのが御結界の私は働きだ、と思いますね。そういう意味でですね、討ち向かう者には負けて時節に任せよといった様なことでも、なにか悠長に聞こえますけども、実を言うたら、ね、大変な勇気がなからなければ、負けることは出来ないということ、ね。まあ、そういう様なことをですね。
御理解四十一節に「信心は話を聞くだけが能ではない。わが心からも練り出すがよい」と御理解四十一節。「討ち向かう者には負けて時節に任せよ。」私は、その任せておる時に、私は練らなければいけないとね。只、べんべんと任せておるというだけではいけない。わが心からも練り出させて貰う信心が必要じゃないでしょうかね。ここに又「討ち向かう者には負けて時節に任せ」とこう仰るのですから、いうなら討ち向かわない者、これにはね、私は、何時も勝ち抜いて行かなければいけないと思う、ね。
「人に勝つより己に勝て」なんていう様な言葉があります。勝ち抜いて行かなければいけません、ね。そういう、私はね、例えば、そういう場合にですね、討ち向かう者があった場合ね、そういう時には一歩ひざって負けておけ。けれども、討ち向かう者もない時には、これはやはり積極的な、いわゆる、その己に勝ち抜いて行こうという、私は、積極性が必要だとこう思うですね。
昨日は、松栄会の方達の入殿二日目でございましたが、十時から、丁度十二時まで、私にお話をしてくれということでしたから、その様なことをお話の内容にさせて頂いたんですけれども。「討ち向かう者には負けてでは」なくてですね、これは、鹿児島の行徳先生の今度、書いておられます御本の題です。本の題ですが「前向きに生きる」という本をご自分の御信心を書いておられます。
ですからこれとは内容が、ぜんぜん意味が違いますけれども「前向きに生きる」という、この題を借りましてね、「前向きに生きるということは、どの様な事かと。「前向きに生きることとは」という題で、私は、お話をしたんです、ね。私共が前向きに生きるということ。前進また前進、前進あるのみだと、ね。又、桂先生のお言葉の中にありますように、こと、神様の事であったらですね。
「前には進んでも後ろには引くな」と。いわゆる不退転のものですね、御精神です。そういう、その前向きに生きるということは、どういう様なことかと。「討ち向かう者には負けて時節に任せる」と言った様な事もです、これは、前向きでおらなければね、前向きでおらなければ、出来ることじゃないのです。ということはどういう事かと。まあちっとずるい考えの様ですけれどもね。
「ここで負けときゃ、必ず自分の方がおかげを頂く」という、私は確信ですかね。やはりおかげに繋がる。もう負けとる方がおかげを絶対に頂くことを確信しておりますから、負けながら心の中でにこにこしている、ということなんです。私共は、その体験をもうそれこそここ二十年間、いやという程、頂いて参りましたから。もう何かそういう様なこう相対的な問題の場合ですね、まあ相手が赤面弁慶になる。
ならこっちも赤面弁慶になって、それに、向こうが向こうなら、こっちもこっちというのではなくてですね。そういう時には、何時も、いわば有難く負けさせて貰う。何故、有難く負けさせて貰うかというとおかげを頂くことを知っておるから。討ち向かう者には負けて時節に任せ、ということはね、そこに答は書いてありませんけれども、それの方がおかげを頂くんぞ、という内容があると思うのです。
討ち向かう者には負けて時節に任せておく方が、おかげ頂ける。ところが、神様を信じきれない時にはね、神様が、まだ分からない時には、負けておく事が、こんなに残念なことはない、こんなはがゆいことはない、というて、まあ苦しがる訳ですね。ここをこうすりゃ自分の方が正しい、自分の方がほんなこつ、自分の言うとることがほんなこつ。それを言われんということは、残念な事だという風になる訳ですけどもねえ。
それの方がおかげを頂く、という体験を積んで参りますとね、ここで負けとくということがね。まあ、相手が、ああ言いよるから、ああしよるから、こちらが負けとく、という気になってですね、行くことによって、成程、神様は後々では顔を立てて下さるんだなあ、とおかげを以って、顔を立てて下さる。それが分かるからです、もう初手から、その事を有難いと受けることが出来る、ね。
初手というのは、初めという意味ですよ、ね。そういう場合に、いわば、はがゆい思いをする事だんではない、有難い気持ちでです、一歩ひざっておく事が出来る、ね。いかにも一歩ひざっておく、というんですから、前向きではないようにある。前進ではないようであるけれども、それは、神様を信じておるから、引いておれれる、ということは、これは前進と同じこと、ね。
いわゆる「馬鹿と阿呆で道を開け」などというのは、それですね。こちらが大きくなっておる、豊かになっておる。ほんとに馬鹿と阿呆で、時節、いわゆる、そこんところをですね、負けておく。そこに時節がくる。時節到来の時には、「やはり、ああたの言よったつが、ほんなこつじゃったの」というごたるおかげにもなってくるし、その負けておる間に神様がおかげを下さる。
同時に、又負けておる間にさっきから申しますように、只負けておるというだけではなくて、その間がわが心からも練り出さなきゃならんということになります。やはり、その様な場合に、一つの辛抱が要るわけですよね。私は昨日、こういうものをお話させて頂く前に、一遍通り読ませて頂いて、これを内容として、まあ、聞いて貰ったんです、松栄会の方達に。「辛抱という時は、まだ本当ではない。
そこから、なっていない自分に取り組む」ということ。例えばですよ、討ち向かう者があってです、ここでは一つ負けとかんならんと負けとく事が本当だ、と思うても、やはり自分の心が治まらない。だから、ぐうっと辛抱せんならん。けどもね、その辛抱という時には、まだ本当でない自分を一つ見極めなきゃならない、というのである。そうでしょうが、神様を信じておる、神様を分かっておる、ね。
それでもねやはりここでは神様が負けておけ、時節を待てと仰るからぐうっとこらえておる。ですからそのこらえておるという、辛抱しておるということがです、自分がまだほんとなものじゃないんだなあと、なってない自分を発見する。なってない自分に取り組んでいく。そしてここを容易う有難ういわば待たれる、時節が待たれるこらえておれれる自分に、いや有難く待てれる私にならして頂こうというところにです。
ここんところに、私、非常に重点を置いて、ここを次のお話を進めていく為に前提として、ここんところをいろいろ、私自身の事としてお話をさして頂いたんですけれどね。例えば、んなら、私共こうやって御結界奉仕させて頂いておる、ね。そりゃもう、ほんとにもう有難うて有難うて、とてもここをまあ、交代の人が来ても、その代わりたくないごと有難い時もあるかと思うとですね。
もうほんとに、はよう立とうごとしてこたえんごとある時もある。まあそれをオーバーにいうなら、泣こうごとここに座っておこうごとない時もある。お結界とは、そんな所なんです、ね。けれどもね、ここを辛抱さして貰やあ、その後が、おかげを受けることが分かる。きつい、あのきついところを辛抱さして頂いて良かった、というものが、体験にあるものですからです、そこで泣く泣くでも辛抱さして頂いておる。
そしてです、泣く泣くでも辛抱しとらにゃならん、ということ自体がね、自分がほんなもんじゃないんだなあ、と気付かせて貰う。有難いことが分かっておる、ね。有難い事が分かっておるけれどもです、ね、やはり辛いことは辛い。そこでですね、この位なこともほんとに一生懸命、歯を食いしばるごとして辛抱しとかんなならん、ということは、自分がなっていない自分であるなあと、そのなっていない自分をいよいよ極めて行きますところに、いわゆる練り出して行くところからです。
一段一段信心が進んで、まあ、恐らくは、これは一生、それは取り組むことでしょうね。世の中にはそう有難ずくめの事ばっかりは無いのです。いやそうすることがおかげだ、ということが、分かっておっても、やっぱ辛いことは辛い、といった様な事もあるのものだ、ということなんですね。ここんところは、まだ大変内容がありますけれども、その位にしてですね。私はね、夏が良いとか、冬が良いとか言う人がある。
これは夏冬だけの事じゃないですよ。あの人は好いとる、この人は好かん、ね。食べ物でも甘いものは好いとるけれども、辛いのは好かんと言う人がありましょう。そういうのはどういう事かと言うとね、私は夏は良いけれども冬は好かんと言う人はね、一年間を半年にする人です自分から。そうでしょうが。夏だけしか好かんち。だから折角一年間という、その一年間を自分から半年にして仕舞う様な人なんです、ね。
そこで、冬もよし、夏も又、有難いと言う、そういう受け方をしていく人の上にです、いわゆる丸ごと、一年三百六十五日丸ごとが、丸まるおかげになって行くという約束されたも同じ事。そういうおかげが受けられるという、ね。人間関係でもそうです。半分は好いとる、半分は好かんと言うなら、もう結局、自分の住まう世界が、半分になって仕舞う様なもんです、ね。
そこで全てをね、全てを有難いとね、冬もよし夏もまた有難いという様な頂き方をするところにです、丸ごとおかげが受けられるという、これは、もう約束される様なもの、ね。次には、先っきから申しますように「有難いと分かっている、けれどもではならぬ。」けれども。ここを辛抱しときゃ、おかげ頂くことは、分かっているけれども。「けれども」が、私は問題にならなければならない。
親先生がああ仰る。仰るけれども私しゃそんな訳にはいかん。けれども。けれどもを私は、問題にしての生き方。そこに、けれどもを付けちゃならん。そこをやはり、辛抱していかなきゃいかん。それにはね、私共が、どうしてもです、どんな事でもおかげにしていこうという意欲と姿勢が、必要だということ。私共日常生活の中、どういう事でも起きてくる。より好みをしない。自分から求めてということじゃない。
自分の上に起きて来る全ての事柄をどの様な事でもおかげにせずにはおかんという、私は姿勢。そういう積極的な生き方。もういよいよ前向きの姿勢ですね。例えば山を歩いている人が猪に出会ったとする。それこそびっくり仰天するだろう、ね。山の中で猪にでも出会うたら、びっくり仰天するであろうけれども、もしそれがです、猪狩りの人には、それはいよいよ有難いことであるということ。
猪狩りに行っておる人の上には、「さぁ、来たぞ」と「さぁ、出てきたぞ」と鉄砲をそこに構えるだろうということ。迂闊に山を歩いている人の上にはです、それこそ大変なことであっても、構えておる人の上には「さぁ、このチャンスを逃しちゃならんぞ。これで一徳受けるぞ。これで力を受けるぞ」といわば構えが違う、ね。それは、どうにもならん様な問題でありましてもです、構えている人の上にはね、そういう例え突発的な事であってもね、それは、嬉しいことであるというのである。
力を受けるとか、徳を受けるチャンスというものは、何時もそうざらにあるものではない。私共が、ほんとにお徳を受けなければ、力を受けなければ、人間のほんとの幸福は有り得ないんだ、と分かった。だから、ここんところはですね、もういよいよ私は昨日も皆さんに申しましたんですけれども、ね、神様の絶対というかね、神様の間違いなさといった様なものをです、あなた方は、分かっている。
例えば、私なら私の信心を通してです、例えて言うならば、討ち向かう者には負けて時節に任せて行くということが、この様にもおかげを受けて行くということをです、私を見て分かっているだろう。神様が間違いないなあ、ということを分かっているだろう。神様が分かっているというところを、の一線上に出なければ、今日のこのお話は出来んのだと前提して私は話したんですけれども。
皆さんとても同じ事。神様が間違いなさということを分かっとらなければ、こういう精進とか努力とか、又そういう姿勢を取ると云うことは、大変危険なことなんです。神様を分かっていないということは、ね。けれども、神様が分かっているから、馬鹿にもなれる、阿呆にもなれるのである、ね。討ち向かう者には、それこそ楽しゅう、心ではニコッと笑いながら、時節を待つことが出来るのである。
その方がおかげ頂くという体験がある、確信がある、ね。「討ち向かう者には負けて時節に任せよ」討ち向かう者には負けて時節に任せるということが、どの位有難い事かという体験をね頂くまでには、やはり場合には、只それこそ血の涙の出る様な思いで、辛抱しなければならない時もあるということです、ね。そして辛抱して時節を待たせて頂いて、辛抱しておる間にです、わが心からも練りて出させて貰う信心を。
「はあ、こういう血の涙の出るような思いをしなければならんということは、ここが間違っておるんだ、ここがいけないのだ」と自分の心をいわゆる見極めて、自分が段々おかげを頂いていく内にです、成程、任せておったことがこの様なおかげになって行く。いわゆる椛目から合楽にかけての、ここ二十年間の歩みというものを思うてみられたら、一番よく分かるです、ね。
そして、今度はです、例えばおんなじ事柄であっても、もう血の涙を流すような苦しい思いをせんでもよい。ここをこうすることがおかげを受けることだ、という、心ではにこにこ笑ういながらです、それを待つ、時節を待つ事が出来る、ね。そういう体験から確信というものが生まれて来るんですね。ですから、いわゆる私が昨日、松栄会の方達にお話をしたようなですね、前向きの姿勢を取っておくことが出来る。
また前向きの姿勢を取っておかなければならんのです。それでも、やはり問題が問題である場合、より例えば、また大きな問題である場合はですね、ほんとにそこをぐうっと辛抱しなければならない自分をですね、見極めた時に、もうおかげであることが分かっておるけれどもね。けれどもやっぱり苦しいことは苦しい。その辛抱しておらなければならない自分というものをもっともっと掘り下げて行く。
というのは、自分をもっともっと見極めて行く。「はぁ、まあだほんなもんじゃないな」と「なっとらん自分である」ということをです、その自分に取り組んで行く。取り組んで行く間にいわゆる練り出されて来るものがある。わが心からも練り出されて来るものがある。といった様な話をさして頂いたね。ちょっとご参拝がありましたから、こちらを中座させて貰っている間に、私が今、お話をしたことを一つ練っておいて下さい、と言うて、又あちらへ参りましたら、色々やっぱり問題があった、ね。
これだけの戸板に書いて、色々内容を話させて頂いてね。それはどういう事が問題になっておったかというとですね、有難いと分かっている、けれどもではならんというところですね。けれどもではならんと仰るけれども、やっぱり先生ここはけれどもを付けなければおられないちゅうんです。だからこれをけれどもを付けんで済む様なおかげを頂く為には、どういう信心をさして頂いたら良いですかということであった。
まだ他に一二ありました、ね。だから私がこのことを申しましたんですけれどもね、そこんところはね、けれどもを付けんで済むおかげというのはね、神様はね、まあいうならば、そう厳しい事ばかりはない。問題はね本気で私共が前向きの姿勢を取ること。本気で例えば今日私が申しましたことをね、例えばほんとに大きなおかげを頂くというか、丸ごとのおかげを頂く為には、夏は嫌いだけれども、夏も好きになる精進をする、ね。といった様なね精進をするという気になることなんです。
そういう気になればね、神様がね、場合には厳しいけれども、場合には撫でさすりして下さる様にですね、して下さる。例えば私がですよ、ならここで辛抱、有難く下がる時もあるかと思うと、もう一生懸命、いわば辛抱し抜いて下がることもある、ね。そして、降りさして頂くと、例えば、神様が、それこそあの撫でさすりする様に私の好きなおやつの様な物をちゃんと用意しておって下さる、ね。
例えば、私が、お茶が好きであったり、ああいう道具が好きでありますから、神様がほんとにその例えば茶道具なら茶道具、茶碗なら茶碗といった様な物をね、もう今日はきつかったろう、と言うて、おひぎんを下さるように下さる。その茶碗をこうやって、「ああ、これは素晴らしいなあ」と撫で回しておる内にです、又、次のファイトが湧いて来る様にです、神様はちゃあんとこちらがその気になればね、出来る様におかげを下さるんだ、といった様な例話を以って、私、話した事でした。
問題はその有難いという事が分かったらですね、分かったら「けれども」を付けてはならん。そこを辛抱して行くということ。そしてこの位の事に辛抱しなければならん程しの、なってない自分であるということを見極めて、それに取り組んで行くそれは苦しい。けれども一度(ひとたび)その場面が代わって来ると、そこにはね神様が待ち受けた様にしておやつを出して下さる様なね、お繰合わせが頂けるのだと。
だから、信心は進めて行けれる。片一方にはこの様に厳しいけれども、片一方にはこの様な神様が撫でさすりする様におかげを下さっておるという事実を体験するから、そこが辛抱し抜いて行くことが出来るんだ。けれどもを使わなくてもよいのだといった様な話をしたことでしたけれどもね。
ですから、今日の御理解から申しますと「討ち向かう者には負けて時節に任せ」ね。時節に任せるということは、これは全ての事ではない。討ち向かう者の場合である、ね。でない時には、何時も自分の心に勝って行くというかね、いわゆる辛抱し抜かせて頂く。そし、それがもう辛抱ではないものになっていかなければならん。辛抱せんでも、有難いものになっていかなきゃならない。
けれども、次には又辛抱しなければならない様なことが、それは恐らく一生、あるでしょうけれどもね。そこになってない自分というものを見極め見極めして行くから、限りなく自分の心の成長というか、わが心が神に向かうて行く信心が出来るわけなんです、ね。その限定、その根底になるものはですね、今、言う神様をそこまで信じておらなければ、そういう前向きの姿勢も取られない。
前向きに生きるということは、その様な事ではなかろうかと、言うて、昨日話したことでございました。今日は又それに、「討ち向かう者には、負けて時節に任せる。」というのは、消極的の様であって、決して消極的ではない。それは勝つことよりもむしろ、負けておくことの方が、力が必要だと。そこにおかげの体験がある。その体験、おかげを受けるその間のこと。
時節を待って、時節到来のおかげを頂くところまでです。私共は、ああでもなかろうか、こうでもなかろうかと、わが心からも練り出して行くところの信心が必要だ、ということになります。今日は討ち向かう者には負けて時節に任せる、ということを聞いて頂いたんです。それを昨日の松栄会に頂いた御理解を内容にして。これは、いよいよ前向きの姿勢をとっておかなければならない。
前向きに生きると言う事はどの様な事か。それは昨日、松栄会にお話をした様な事の内容と同時にです、今日、私がまた改めて申しております「討ち向かう者には負ける」ということ、ね。その負けると言う事その事がです、ね、前向きに生きるという姿勢をとっておかなければ、出来ることではないと言う事です、ね。その事を聞いて頂きました。
どうぞ。